202: 名無しさん@おーぷん 2014/05/31(土)00:06:18 ID:YrwL6aTvk
ここは時々戦時体験談みたいな話があるから我もというわけじゃないんだが…
何年か前に祖父の遺品を整理してたら祖父自身が書いたと思われる
『軍隊生活回想録』なるものが見つかってさ、
興味ある人がいたらここで書いていこうと思うんだけどどうかな。
満州へ行ってたという話だから、海と関係がある事柄は、
復員船としてリバティって船に乗ったということくらいしかないんだけども。

243: 名無しさん@おーぷん 2014/05/31(土)00:14:14 ID:641DF04nw
>>202
いいと思うぜ

280: 名無しさん@おーぷん 2014/05/31(土)00:23:08 ID:YrwL6aTvk
>>243
ありがとう。んじゃちょっとずつ書いていこうと思う。
ちなみにこういう場所に乗っけてもいいかという許可は実子である母にもらってる。
かなりの分量があるんで、最初から全部書いたものか、
ところどころ抜き出して書いたものか悩むんだけど、とりあえず最初から…
存命のご兄弟方などもおられるので、念のため個人名や一部地名は伏せさせていただきます。


昭和十六年当時二十六歳の青春時代であった私は自宅の○○三丁目から今の市役所東別館の、
○○電力(株)○○支店工務課に通勤していた。
八月のそんな或る日の午後、親父が召集令状(陸軍入隊の命令書)をもって職場へ私を訪ねて来た。
当時日本の陸軍は、北は満州と北支・中支・南支の主として東側の主要都市を拠点に展開し、
戦線はさらに拡大しつつある状況にあり、
会社内の男子社員の先輩、後輩の中にも既に十数名のものが現役や召集で従軍中であったので、
やがて近く私にも順番が廻ってくるであろうことを覚悟していたので別に驚きもなかった。
当時国内は戦時の統制経済で物資は窮乏し、家庭生活も質素で決して楽しいものではなかった。
一方家庭では、先年の十三年五月に妹Sが、続いて十四年二月に長兄Yが、
さらに同年四月にY(妹)が病没の不幸続きであったが、一応その時は落ち着きを取り戻したところであった。

(祖父は9人兄弟だったが、4人が結核で亡くなり、1人が戦病死したそうです)

292: 名無しさん@おーぷん 2014/05/31(土)00:26:50 ID:pvzHr4BO7
>>280
4人も結核で亡くなる時代だったんだなと思うと怖いな

300: 名無しさん@おーぷん 2014/05/31(土)00:29:00 ID:WWdZBGe1L
>>292
半分生き残ってるからまだ幸せな方だと思うよ。ウチは2/9だわ。

306: 回想録 2014/05/31(土)00:30:47 ID:YrwL6aTvk
礼状には八月十日○○時までに「加古川中部第百部隊(航空隊)に入隊すべし」とあった。
入隊までには四~五日の余裕があったように思う。先ず職場の歓送会があった。
今までは送る立場であったが今回は送られる側で会に臨んだ。
支店長の歓送の言葉と答辞、万歳三唱と型通りのものであった。
夜は職場のグループだけで送別会を行ってくれたが、この方が身にしみた。

母親は千人針の仕上げに奔走してくれている。
口こみで岐阜に霊験あらたかなお守り札があることを聞いたので、
どこであったかは今では憶えはないが、次兄と一緒にもらい受けに行くことにした。
駅までの道すがら、これで○○の町も見納めかと今さらのごとく感慨をもってながめた。

やがて入隊前日となり、夜行列車で出発することがきまった。
物の乏しい時であったが、母の心づかいで鯛のお頭付きの膳で家族別離の祝宴を開いてくれた。
宴も終り、町内の方々からのお迎えで氏神さんへ戦勝祈願を行うに当り、
玄関を出るとき引戸に手をかけ涙をうかべていた母の顔が今でも忘れられない。
駅へは次兄の付添いで父と弟達の見送りである。
まさかと思っていたが深夜にも拘わらずMさんが娘さんを連れて○○から見送りに来てくれて感激した。
挨拶をすませ、車中の人となる。

うつらうつらしながら夜行列車に揺られる窓外は闇であるが、町の灯が後へ後へと流れて行き、
ぼんやり浮かんで消えて行く。
やがて列車は早朝加古川駅へ着き、下車する。
駅から飛行場までどれ程距離があったか憶えはないが兎に角、休憩宿をさがしに町へ入る。
附近は召集兵を受け入れる宿があちらこちらにあった様である。その中の一軒に上り、落ちつく。
先ず持参したバリカンで兄に長髪を刈ってもらい、坊主頭となる。昼食をすませ、いよいよ入隊である。
兄とともに宿を出る。そこらここらから召集兵が付添と一緒に同じ方向に歩いて行く。

受け入れ現場では待ち受けていた担当の兵がグループ毎(兵役年度別か出身地別か憶えはない)に集め、
入隊までの注意事項を伝達する。
終に臨み中隊長で小柄な中尉からの訓示があった。急に附近がさわがしくなったので、見ると
付添の父親が私服の憲兵に胸倉を掴まれ鉄拳制裁をうけている処である。
口こみで知ったその理由は、父親がうちの息子はあんな小さな隊長に使われるのか
とふともらした言葉をパトロール中の憲兵に聞きとがめられたらしい。
当時憲兵の権力は絶対であったので、他のものはただ傍観しているだけである。
注意伝達事項も終り、それぞれ上は軍帽から下は軍靴まで次々と支給され、私服と着替える。
私服はまとめて風呂敷に包み、兄に預ける。これで兄ともお別れである。

331: 名無しさん@おーぷん 2014/05/31(土)00:37:03 ID:641DF04nw
>>306
拝読するます
憲兵って本当に権力あったんだな…
つうか私服でそういうところで監視してたのか

337: 名無しさん@おーぷん 2014/05/31(土)00:38:27 ID:pvzHr4BO7
>>306
割と淡々と書かれてるけど招集された時にはそれなりの歳だったんですかね

339: 回想録 2014/05/31(土)00:38:49 ID:YrwL6aTvk
落ちついたところは兵舎替りに二階建の新しい倉庫のようである。
先ず敷布団がわりに毛布一枚を横に四つ折りにしただけで、
支給された背負い袋や水筒、飯ごう等を枕元にきちんと並べて、これで仮の居場所はできたわけである。
隣の者とは同じ立場であるのですぐに親しくなり、身の上話を語り合う。
そうこうしているうちに夕食となり、当番が飯上げ(炊事場へ食事を受取りに行くこと)に行き戻って
食事がそれぞれメンコ(アルミの飯碗・汁碗等)に盛られる。
入隊祝のこととて、赤飯と油でぎらぎらした豚汁その他である。
折角の献立であるが、真夏のことでもあるし、半分位しか食べられない。他のものも同じである。
見ていた古年兵が、今にすぐ食事が足りなくなるぞと言っていた。

(そういえばこの回想録、表紙に無くなった年の2年前のカレンダーを切ったものが使われたことから
かなり晩年に書いたものだったみたいで、
 もしかしたら思い出が誇張されてたり間違ってたりする部分もあるかもしれない
ということはご了承下さい)

354: 名無しさん@おーぷん 2014/05/31(土)00:41:48 ID:SLTTsFkYL
>>339
回想録なんてそんなもんでしょ。
それより実際に戦争を体験された方の言葉をこんな形でも聞ける事の方が
はるかに貴重やで

349: 名無しさん@おーぷん 2014/05/31(土)00:40:34 ID:RyJOof8gn
後になって書いたのだとアテにならなかったりするのはあるわな
船の色すら定かで無かったりする

364: 回想録 2014/05/31(土)00:45:28 ID:YrwL6aTvk
夜の点呼が終わって兵営初夜の寝につくが、背中が痛くて寝つかれない。
翌朝六時に起床の合図に起され、枕もとの軍服を手早く身につけ、気だるい身体にむちうち飛行場まで駈足だ。
着いたところで各班毎に整列点呼。これから初日の日課が始まり、
以後食事のとき以外は飛行場の隅で毎日、敬礼、速足行進整列等の基本訓練が続く。
班長は伍長で、召集兵らしく温厚。班付上等兵は○○近くの出身で、Mと言っていた。
班では殆んど関西出身者であったので、俺だけ同郷の誼でよく面倒を見てくれて助かった。

噂によると今回の召集兵は教育が終われば内地、台湾、満州、佛印方面へ派遣されるらしいことが判った。
我々の班は入隊の時から赤い軍帽が支給されていたので、最初から内地残留か、台湾組が予想されていた。
ある日一名づつ中隊長に呼ばれ、身上調査が行われた。
そのとき俺は本音ではないが、外地で充分奮斗したい旨を表明したところ、
内地でも奉公には変りがないので頑張るように言われたので心中ではしめたと思ったことである。

二十日間の教育も終り近づき、家族との面会日がきた。
場所は当時白砂青松の海岸で、高砂の松原である。
家族はそれぞれ適当の場所に敷物を拡げ、息子、夫(妻帯している兵もいた)、兄、兄弟を待っていた。
兵隊は現場で解散し、それぞれ家族を捜す。
胸をわくわくしながら見て歩き、探し当てたときの感激は今でも忘れられない。
家族全員六名(父・母・次兄T・弟S・I・妹T)である。面会時間は三○分位だったろうか。
俺は逞しくなっていたのと、内地に残ることで家族も安心したらしい。
乏しい食生活の中にも拘わらず心づくしの差入れに親のありがたさが身に沁みる。
面会もあっという間に終わってしまう。
終わってしまえば今までいた家族の残影を追いながらの会場の清掃である。
これが軍隊と言うところかと思ったことである。

各隊の転属の日が近くなった或る日、中隊長に呼ばれ満州部隊へ転属するよう命令された。
理由は盲腸の入院兵の欠員補充である。
部隊名は第十五航空情報隊である。班付のM上等兵には関東軍は気合が入っているの
で勤務がきついと脅されるし、家族には内地残留と言うことで安心して歸(帰)っていたのにと思ったが、
命令は絶対である。
しかし考えてみるともし内地勤務の場合、南方戦線への転属は充分考えられることで、
これが第一の運命の岐路であったかも知れない。

394: 名無しさん@おーぷん 2014/05/31(土)00:51:07 ID:SLTTsFkYL
>>364
爺さん欠員補充で満州行ったのか

379: 名無しさん@おーぷん 2014/05/31(土)00:48:03 ID:5stk9Fa76
まぁ、今でこそ色々な問題があってあまり開催されなくなりましたが
30年位前とかは百貨店とかでよく「戦争展」とかやってたんですよねぇ
大阪のそごうやら大丸でもやってて、当時小学生低学年くらいのときに親に連れて行ってもらった時に
そこでサツマイモのおかゆ食べてたら、初老のお爺さんが横に座ってきて私に何やら話しかけてた。
それで茶色に色あせた軍服を着た当時の自分の写真を見せてくれて私に話をしてくれていたんだろうけど
当時の幼い私じゃそういう話も分かる筈もなく・・・
今だったらちゃんと話を聞けたのになーと30年近く経った今でも思い出します・・・

404: 名無しさん@おーぷん 2014/05/31(土)00:52:33 ID:fHDeITXgw
>>379
どうやら回想録に出てくる加古川飛行場跡地の尾上公民館では
毎年8月に加古川飛行場展ってのをやってるらしいぞ

486: 回想録 2014/05/31(土)01:08:09 ID:YrwL6aTvk
>>404
へぇ、毎年そういうのやってたのか…今度見に行ってみるかなぁ。
↓続き

此処で内地と同じ様に暫くの間、兵舎裏の丘陵地帯で基本訓練が続く。
どれほど(二ヶ月位)経ったか、一期の検閲が終わり、皆星二つの一等兵に進級する。
兵員は一中隊(航空情報隊)と二中隊(航測隊)に分れる。
航空情報隊は味方最前線の要所要所に分隊毎に展開し、望遠鏡で対空監視を行い、
敵機進入を発見すれば直に携帯無線で友軍後方基地に連絡する任務である。
航測隊は分隊毎に飛行場三ヶ所以上に展開し、作戦中に味方機の発射する電波を
航測手が方向探知機で方向角度を測定し、観測結果を通信所へ電話連絡する。
各通信所は無線で直に飛行場に連絡する。飛行機はこれにより自機の位置を確認する。
分隊長は軍曹で、隊員は十五名位で航測手・通信手・暗号手・送信手の任務に分れる。
俺は二中隊に配属され通信兵が任務となり、モールス通信の教育を受けることとなった。
兵舎は赤煉瓦で、室は上下二段に仕切られ、俺は下であった。

これから本格的に厳しい初年兵教育を受けることになる。
野外訓練の他は専らモールスのトンツーの送受信教育である。
人にはそれぞれ得手不得手があるらしく、他では頭の好いものでもモールスは不得手で伸びないものもある。
そういうものは送信手にまわることになる。
分隊の機材は航測関係では組立式簡易二階建探知小屋・重査アンテナ・方向探知機・十二Vバッテリー。
通信関係は一○球スーパー受信機二台と十二Vバッテリー・電鍵・中継器等。
送信関係は野外組立式アンテナ・D.C二〇〇〇V・十二V送信機とこの電源となる発動発電機と
電動発電機で、一ヶ分隊の兵機器材は他の兵科より質量ともに大である。
これ等の機材を使い、教育訓練が続く。三八式歩兵銃も支給され、兵隊らしくなった。
教育は俺の専門知識が役立って楽なものであったが、内務班の生活は
常時古参兵が目をひからせていたので厳しかった。

夕食が六時で消灯が九時のため、この間に身の回りの整理、兵器被服の手入れ、
衣類の洗濯等をできるだけ手早く片付けて余裕時間を残そうとするのだが、現実はタバコもゆっくり吸えない。
初年兵のつらさである。消灯時間が近づくと、週番下士官が点呼を告げる。各班は班長が兵を整列させ、
巡回の週番仕官に異状の有無を報告して、終ってから解散を命ずるのであるが、
実際はこれからが大変で、古参兵の初年兵いじめが始まるのである。
例えば軍人勅諭の晴哨とか、襟布・靴下の汚れ・銃帯剣の手入れ状態等、
なにかを見つけては気合いを入れられる、こんな日々が続く。

415: 名無しさん@おーぷん 2014/05/31(土)00:54:03 ID:WWdZBGe1L
>>379
ウチの婆さんは農家の悪口ばかり言ってたな。
アホみたいな値段で売り付けられるうえに、やっとれんから
自分の土地に植えた野菜は引っこ抜かれたりしてたらしい。
引っこ抜いた理由は農業用水の使用権。自宅の井戸の水使ってたのに。

440: 名無しさん@おーぷん 2014/05/31(土)00:57:48 ID:RyJOof8gn
>>415
うちの婆さんは仙台の庄屋だか何だかで空襲で焼けた連中が
汚い格好で別館の洋館に入り込んでたのを文句いいつづけてるからな

やっぱり客観的なキレイ事と主観的な迷惑は違いますわ

450: 名無しさん@おーぷん 2014/05/31(土)00:59:52 ID:WWdZBGe1L
>>440
やろね。

427: 回想録 2014/05/31(土)00:55:36 ID:YrwL6aTvk
(いよいよ外地へ。船に乗った話も)

九月になって愈(いよいよ)出発の日となり、輸送司令官に統率され軍装に身を固め、
と言っても背負袋・雑のう・水筒・帯剣のみで衛門で飛行場部隊に見送られながら堂々行進で原隊を後にする。
駅からは車中の人となるが、動員秘とくのため客車の窓は左右ともヨロイ戸が下げられ、外界を遮断。
まるで囚人列車のようである。

やがて着いたところは広島で、市中の旅館に落ちつく。
夕食は忘れもしないハヤシライス。腹一杯食べ、満腹する。
衛兵を命ぜられ、五名位で玄関で命令通り勤務につき、交代で仮眠しながら朝まで頑張る。
朝食が終わって乘(乗)船場所の宇品港へ向かって出発する。
埃を立てながら一本道を行進するが、道すがら市民がチラホラ手を挙げて見送ってくれる。
中には家族らしいものもおり、暫く隊とともに歩き、別れを惜しんでいる様である。
どれくらい歩いたか、やがて宇品港に着き、乗船する。

輸送船は貨物船を一部改装したものである。貨物置場である船室は天井が低く、立って歩けない。
また荷物並に押し込まれているので、横になるスペースもなく、
むしろ一枚の上に座っているだけで、およそ人間扱いではない。
何時間たったか、関門海峡を通過することでこれで内地ともお別れかと一部のものは甲板に出たが、
俺は出る気もない。今更どうしようもないことだ。
船内の給与の副食は素適に辛い鰯等で最低。トイレは甲板上に急造した溝に台木を二本渡し、
四方をむろで囲ったお粗末なもので、つまってくると船員がホースからの放水で海上に洗い流す。
こんな日時がどれくらい経ったか、着いたところは大連港であった。

上陸してから休憩中に売店を見て廻ったところ、このところ内地ではお目にかからない
羊かんやキャラメルがふんだんにある。早速雑のうに詰めるだけ買う。
駅まで行進し、列車(客車)に乗り込むが、駅までの道すがら道路の両側に
ニッサンやトヨタの軍用トラックが列をなして雨ざらしになっているのが目についた。
これは中止になったがノモンハン作戦のために準備されたものらしい。
車中の人となり、甘いものに飢えていたのでキャラメル・羊かんを貪り喰った罰で、下痢してしまって参った。

列車はかつて日露戦争の各戦場を通過。北へとひた走り、話には聞いていたがさすが満州の昿(広)野は広い。
ところどころに点在する村落以外は果てしなき大平原である。まるで海と一緒だ。
太陽は東の地平線から出て西の地平線に入ると言った具合である。
何日、何時間経ったかわからないが、着いたところは北満、チチハルであった。
九月の初であったが、内地の冬の気候で寒い。大変なところへ連れてこられたものだと思ったが、
駅の構内にネッカチーフを頭にかむった邦人女性がちらほら居たので安堵する。
我々を加古川から此処まで連れて来た輸送指揮官が出迎えの所属部隊の将校に我々の引渡式を行う。
終れば輸送指揮官はお役御免である。
飛行場まではトラックに運ばれ、兵舎に収容される。身の廻りのものを整理してから
始めて携帯の飯盒に飯と味噌汁の給与を受ける。その美味しかったこと、今でも忘れられない。

452: 名無しさん@おーぷん 2014/05/31(土)01:00:12 ID:SLTTsFkYL
>>427
下級兵士はまともな扱いされてなかったのか…辛いな

467: 名無しさん@おーぷん 2014/05/31(土)01:03:20 ID:R0Y97jqOh
>>427
陸軍も陸という海の上で闘っていたのだな

540: 回想録 2014/05/31(土)01:18:51 ID:YrwL6aTvk
(厳しい訓練生活の話が続きます)

楽しみは寝ること、食べることであるが、寒冷地であるため食事は豚汁が多い。
毎日腹が減ってがつがつしているので、当番兵が飯をついでくれるのが待ち遠しいし、
他の兵のものの方が盛りがよいように見える。全く餓鬼である。
点呼後は便所でゆっくり喫煙するのが楽しみで、煙が立ち込めていても古参兵は知っていてもとがめない。
不寝番に立って各班を巡回しながら外を眺めると、青白い月光が営庭を照らし、内地を思い出させる。
こんな生活がいつまで続くだろうと郷愁にとらわれる。空腹感の強い毎日であるが、
体重がどんどん増えていくから不思議であった。

中隊は二〇キロ位南の「エ(ユ?)ジュトン」と言う別の飛行場まで行軍することになった。
隊列を組んで見渡す限り道なき道の平原を小休止しながら歩く。どれくらい歩いたか、
目的地へ着くと、幕舎を張って野営である。
北満の十月の夜は寒気が厳しい。食事は飯盒炊さんである。
翌朝食事が終ってから当番が飯盒を一括して洗ったため新旧が交ざり合ってしまい、
型が違うのでそれぞれ自分のを合わせるのが大変である。
あちらでがやがや、こちらでがやがやでやっと装備が終って帰途につくことになるが、
出発の段階で陸士出の気合の入った中隊長曰く
「貴様達はいつまでも地方気分がぬけていない。まるでハイキング気分だ。
これから俺が気合を入れてやる。ついてこい、駈足進め!!」で自ら先頭に立って走り出した。
最初のうちは四列従隊でタッタタッタと調子がよかったが、時間が経つに従って
だんだん落伍者が出るようになり、追尾しているトラックに拾われていくため、
その分の間をつめるのに歩調が乱れる。
こうなると疲れもひどくなり、そのうちに中隊で隊員の半数しか装備されていない銃を担うのがきついので
互に敬遠する始末である。そのうちに班員を励ましながら並走していた班長まで落伍してしまった。
銃を預けられた俺はこうなったら意地だ、先頭を走っているあんな若僧士官に負けてなるものか
と隊列を詰めながら只管走り続ける。
途中先導者が道を間違えたのか「ノン江」と言う河の際をひざまでつかり、濡れながら渡る。
昼食の大休止や小休止で息ぬきしながら夕方になって漸く帰隊する。

さて舎前で解散し班に帰って自分自分の装備を手入れ整理整頓し終ったところ、
留守を守り待ち構えていた古年兵が俺達初年兵を集め、銃・帯剣・薬ごう(弾入れ)・編上靴を検査する。
結局手入れが悪いと言うことで、下駄箱の上へ正座をさせられる。場所が狭いので上体が不安定できつい。
全く陰険な制裁(いじめ)である。帰隊して間もなくで手入れする時間があらばこそである。
これが軍隊かとしみじみ思った。

552: 名無しさん@おーぷん 2014/05/31(土)01:25:51 ID:OtejSC8iG
>>540

no title

560: 回想録 2014/05/31(土)01:30:17 ID:YrwL6aTvk
(この辺から内容がほとんど未推敲であったようで、とにかく思い出したエピソードを羅列した、
という体になっていきます。
 誤字・脱字らしい部分も結構あったんですが、基本的にはそのまま書き写しています)

十月に入って北満の秋は日没も早くなり、冬である。
班内はペーチカ暖房だが、二段になっており俺は下段のため冷える。上段は暑いくらいである。
防寒衣類も支給された。
俺は優秀と見做され、上等兵候補者に入っていた様である。従って衛門衛兵勤務が回ってきた。
勤務につくと食事が充分支給されるので、なんともありがたい。だが夜間の動哨任務がきつい。
銃の先へ剣を付け右脇に抱えながら定められたコースを警戒しつつ交替兵がくるまで動哨を続けるのである。
真暗闇の中ときどき十八〇?の燃料タンクが寒気で縮まるらしく、カンカンという金属音が不気味である。
交替して哨所に帰り、防寒衣を着けたまま毛布一枚かけて仮眠するのだが、外気は極寒零下のため、
ストーブのある哨所内でも寒くて眠れたものではない。

朝になって営門哨所の立哨任務につく。これがまた責任重大である。
将校には捧げ銃、下士官にはそのまま頭を下げて敬礼するのであるが、斜め左側の位置に衛兵所があり、
司令(下士官)以下衛兵が腰掛けており、俺の動作を見ながらそれに対応して敬礼するのだから、
間違ったら欠礼することになり、営倉入りである。
暫くは官舎から営外居住の将校、下士官が引切り無しにパラパラ出勤してくる営門を通過する度に
この敬礼を繰返す。だから大変である。
漸く任務を終え昼頃になって勤務交替し、内務班に帰って上段寝所で点呼が終るまで仮眠が許される。
このときは極楽である。

軍隊というところは、知っていても上級者には知らないことにして対応しないと大変な損をすることになる。
例えばこんなことがあった。演習中に寒冷地のため発電機が残留磁気をなくし、電圧が上がらない。
上級者や上官が見ても直らない。
そこで同年兵に頼まれてバッテリーで充電してから処置をしたところ、
後で俺がやったことがわかり上官の面目をつぶしたことになった。
こんなこと等もあって結果的には第一選抜上等兵からもれてしまった。

(祖父が亡くなったのは自分が子供の頃でしたが、なんというか、マイペースな人だったのを思い出しました)

573: 名無しさん@おーぷん 2014/05/31(土)01:33:02 ID:RyJOof8gn
>>560
砲の欠陥指摘したら「陛下の砲に欠陥はない!」って叱られるって話もあったな
>皇軍
面子重視なのは、まぁ、今の日本もか

576: 名無しさん@おーぷん 2014/05/31(土)01:33:33 ID:DZIJCTVgb
>>560
日本って今も昔も官僚的組織っすなあ

600: 名無しさん@おーぷん 2014/05/31(土)01:41:43 ID:WWdZBGe1L
>>576
アメちゃんも兵器メーカーから賄賂貰った軍人が色々やらかしたけどな。
「魚雷の不発は不良品ではありません。全て現場のミスです。」
「ドイツ戦車はM4で撃破可能です。弾かれるのは引き付けて撃たないからです。」
乱暴&適当にまとめるとこんなかんじ。ばれて軍法会議だけど。

602: 名無しさん@おーぷん 2014/05/31(土)01:42:20 ID:DZIJCTVgb
>>600
日本だと軍法会議にもならないから

613: 名無しさん@おーぷん 2014/05/31(土)01:46:28 ID:WWdZBGe1L
>>602
つ  シーメンス事件

まあ、呑気に軍法会議なんかする余裕のある戦局じゃないんだけどな。

641: 名無しさん@おーぷん 2014/05/31(土)01:52:42 ID:DZIJCTVgb
>>613
外国から突っ込まれると弱いのね
日本しっかりせい

586: 回想録 2014/05/31(土)01:37:54 ID:YrwL6aTvk
つらいのは洗濯で、極寒時でも水を使うので凍ることもあり、思う様に出来ない。
便所の大小便も凍結してしまう。
小便はオレンヂ色のシャーベット状になって流れなくなるので、週番兵が非番の兵を使い、
十字鍬(ツルハシ)で破砕するのだが、飛び散ったかけらが顔につけば溶けるのでこれはつらかった。

週に何回かの入浴は楽しみでゆっくりは入っておれないが、それでも暖まった体は外気にふれても心地よい。
ぬれたタオルは内務班に帰るまでに凍って棒になってしまう。

何よりの楽しみは外出で、引率されて町へ着いたら集合時刻が申達され、解散して自由時間を過す。
上級兵は邦人経営の飲屋で一杯だが、こちらは同じ邦人経営でも菓子屋の方で
羊かんその他甘味品をしこたま仕入れたうえ、待ち切れずその場で口に入れてもぐもぐ。
他所から見ればまるで子供である。

それから困ったのは虱である。とうとう俺にもうつり、そのかゆいこと。
防寒の厚着の下のシャツについているのだから始末が悪い。
やたらそこらで脱ぐこともできないので、便所へ入って脱ぎ、シャツの縫目の中の数珠つなぎの
成虫や卵をつぶすのが大変である。何回か着替えているうちに駆逐することができた。

内務生活で上層部からは私的制裁は禁止の通達があるらしいが、現実はそう甘くない。
一番惨酷なやつは対向ビンタというやつだ。点呼が終ってから例によってすぐは寝させてくれない。
古年兵がお前達はたるんでいるということで前列を廻れ右をさせて向かい合せ、
互にビンタを打ち合うのである。
戦友同志だから軽く打てない。軟調では許されない。従ってこちらが強く打てば相手も強く打ち返し、
だんだんエスカレートする。これが対向ビンタのミソらしい。よく考えたものである。

598: 名無しさん@おーぷん 2014/05/31(土)01:41:32 ID:DZIJCTVgb
>>586
ビンタ打ち合うとかもう訳分かんねえなあ

639: 名無しさん@おーぷん 2014/05/31(土)01:52:34 ID:641DF04nw
>>586
満州で防空の部隊だと直接の危険は少なそうだと思ったがイジメは嫌だなあ

>軍隊というところは、知っていても上級者には知らないことにして対応しないと大変な損をすることになる。
パラノイアっていうゲームのルールを思い出した

649: 名無しさん@おーぷん 2014/05/31(土)01:57:02 ID:Ix4Hn1BC4
>>639
あなたは幸福ですか?

673: 回想録 2014/05/31(土)02:06:19 ID:YrwL6aTvk
>>639
実際前線で撃ち合ったということは無かったみたいで、回想録の内容もこういう生活だった
という話が中心ですが、危機一髪という場面もあったようで、今後その辺りの話も出てきます。
↓続き

またトウハツの発動発電機の二サイクルエンヂンが不調であったので、
分解して手直ししたりしている内に時は経ち、早い北満の冬はやって来た。
チチハルよりさらに緯度が北の北安の寒気厳しい厳寒時には空気中の水蒸気が凍って
ダイヤモンドダストになってキラキラ光って落ちてくる。
枯れ木には氷の花が咲く。零下四〇℃まで下がったこともあるらしい。

寒いときは風呂が楽しみで、大隊まで行ってもらい風呂である。
いつも仲のよい戦友、O一等兵(福島県人)と一緒に行く。
寒気厳しいので、風呂の中は湯気が立っているが、二重硝子でも中側は凍っており、
浴槽は周辺のみが空いており湯の流れる溝以外はツルツルで歩きにくい。
湯上りして気をつけていたが足をすべらかして側溝の中に足を突込み、足の拇指の爪を剥がしてしまった。
こうなったらしようがない。Oに肩を借りて大隊の医務室まで行き衛生兵に頼んで
僅かにくっついていた部分を残して鋏で切り落としてもらい、赤チンとガーゼで手当てをしてもらい、
Oの手をかりて帰班したが、それからが大変で立っていても横にしていても拇指がうづいて耐えられない。
やむをえず足を杭にもたせかけて上げていれば楽になる。
このことで二、三日辛抱している間、Oには迷惑をかけた。
急造の箱そりを造り、その上に乗せて医務室通いをしてくれた。戦友なればこそである。

方向探知所の夜間勤務も厳しかった様である。四方を囲ったうすい合板の中だから断熱効果は少ない。
中へ炭鉢を持ちこみ暖をとるのであるが、防寒衣を通す寒気も厳しいし、
炭火の一酸化中毒の頭痛がひどく、任務明けの朝はみな青い顔をして帰班して、頭痛を訴えていた。
その点俺は兵舎にペーチカがあり、暖房がきいていて助かった。

あるとき夜中に目を醒ましたとき定時連絡時刻をわずかにオーバーしており、
これは大変とレシーバーを耳に当てたところ幸いにして未だ他所が本部と交信中でやれやれ。
傍受していて終ってから本部を呼出し連絡をつけ、間一髪で任務を達成することができた。

(想像するだけで痛い話…)

644: 回想録 2014/05/31(土)01:53:12 ID:YrwL6aTvk
こんな生活が続いているうち昭和十七年、北満の原野にも春が訪れ、
名も知れない高山植物の花が咲く様になった。
北満の季節の移り替りは早い。空気が乾いているせいか日射は強く暑いが、日陰はひんやりと涼しい。

初めて演習にでることになった。目的地は牡丹江の東の温春というところである。旅客列車で現地に向う。
途中ハンピンから亜城を過ぎる頃の窓外沿線の風景は内地そっくりで郷愁を誘う。
社内で偶々筋向いで座っていた金髪の人形の様な白系露人の少女を思い出す。
当夜は牡丹江で泊ることになったが、町は日本造りで内地へ帰った様な錯覚を起す。
小学校の講堂でごろ寝である。

何日いたか、こんな演習もあって帰営して間もなく部隊は
分隊(十五、六名)ごとに作戦拠点に展開することになった。
ボタンコウ・コンシュン・チャムス・ペイアン、の四ヶ所で、たしか本部は牡丹江だったと思う。
俺の分隊はS軍曹(○○市)以下十五名でチチハルよりさらに北の北安である。
兎に角一々分隊の機材が多いので大変である。
特に電動または発動発電機は四人でやっと担ぐので、トラック・貨車と積み降ろしなどが容易ではない。

現地についてから方向探知所・通信所・送信所の開設も終り、飛行場大隊の給与を受けることになったが、
今度は初年兵も加わったので勤務も大分楽になった。
任務は本部から指令のあるソ連の無線通信電波を夜間に方向探知機で測定し、
その方位角度を本部へ定時に通信連絡することである。
この場合、分隊長が作成起案した電文を暗号手が三数字の電文に暗号化し、通信手に手交する。

朝夕の点呼結果は先任一等兵が大隊本部へ行き、異常の有無を報告するだけであるので、
チチハル当時の生活とは大違いで楽なものである。
しかもS隊は一応召集兵が多いということにしていたからいい気なものである。
月に何回か外出で街へ出るのが楽しみで、
邦人経営の酒場でホステスのサービスで一杯が唯一の慰安であった。

宿舎の生活用水は野外の深井戸から縄つきのバケツで汲み上げるのであるが、勿論水質も悪い。
生水が祟って大腸炎にかかってしぶり腹がしばらく続き、これには参った。

ある日給与を受けている大隊の創立記念日で夕食はビールがつき、鯛のお頭つきの豪華飯である。
分隊長以下アルコールが廻りご機嫌のところへ週番士官(大尉)が回ってきて班を覗いただけで帰ってしまった。
翌朝いつも通り武部先任一等兵が例によって異常なしの報告をすませ、本人自身も
帯剣をつけたまま寝床にころがっており、その他の者は分隊長以下班員も毛布をかけたままグウグウ。
丁度その時昨夜の週番士官が長靴でドアーを蹴って入ってきて、大喝一番
「この様は何だ。貴様は虚偽の報告をするのか」と大声一番皆起きろと気合を入れられ、
服装を整える暇もあらばこそ、そのまま直立不動で平身低頭した。こんな一幕もあった。

(食べ物の話が多いのは、それくらいしか楽しみが無かったということもあるのかな)

651: 名無しさん@おーぷん 2014/05/31(土)01:58:17 ID:R0Y97jqOh
>>644
どうでもいいが白系露人の少女の部分だけみて「ヴェールヌイ!」と喜び叫び
前についてる金髪を見てしょぼくれる私であった

720: 回想録 2014/05/31(土)02:27:34 ID:YrwL6aTvk
うーん、結構見て下さっている方も多いようですし、
どのみち今日は朝のデイリー任務を消化してから寝るつもりだったので、
このまま最後まで投下していくことにします。興味のある方は続けて見てくだされば。
続きます↓

こんな勤務と生活をしているうちに十八年三月頃本部から
「分隊は牡丹江の東の東京城飛行場に集結すべし」の命令がきた。
これで北安の街ともお別れだ。最後外出がゆるされたが、資金がなくなった。
やむなく満人にセイコー社の腕時計を交渉して二十円で手放してしまった。
この街も約半年余りの駐留になったが、思い出多い期間であった。

機材を撤収して列車に乗ったが、現地へは途中ハルピンで乗換えしなければならない。
ところがここでハプニングがあった。
使っていた毛布は梱包してプラットホームに置き、俺達は待合室で待機。
乗換列車がくるまで交代で監視していたが、一寸の間に満人の人夫が毛布を他の列車に乗せてしまった。
分隊長が気がついて降ろそうとしたが、発車しかけて間に合わなかった。
やむなくその旨を停車場司令部に連絡しておく。
待合室で待機中はベンチに腰掛け辺りを傍観していた。
朝でもあり、流石北満の大都市の駅であるので、邦人・満人・白系露人の往来も激しい。
待合室の片隅にはキリスト像が安置してあり、祭壇に白系露人が片膝折って敬虔な祈りを捧げている。
中でも編上靴をはいた少女が胸に十字を切って祈る姿が美しい。
また待合室の通りで薄いコートを着て立っている青年のコートの端を
両手ですがり泣いていた小学生くらいの妹であろう姿が印象的で
情景があの「検事と妹」の歌詞そのものである。未だに忘れられない。

東満の東京城に着いてチチハル以来別れた戦友と半年振りに再会し、
懐かしさとともに任地での労苦話に花が咲く。
皆が「お前の様な優秀なものが進級しなくて一等兵とはおかしい」と言って認めてくれて、気持ちも軽くなった。
軍隊というところ不得要領のものは損をするところだとつくづく思った。

747: 回想録 2014/05/31(土)02:36:43 ID:YrwL6aTvk
三月の満州は未だ寒い。部隊はここで編成替えが行われ、
仕立てられた軍用列車で一路南下することになった。
今度は客車ではなく、真中に引戸のついた貨物車に五〇名位ギュウ詰めのひどいものである。
仰向いて眠るスペースもない位で、戸は閉めると暗いので開け放してある。
南満鉄道は山海間を通過し、北支に入る。食っては寝の繰返しが続く。どれ位乗っていたか記憶がない。

南下するに従って気温も高くなるのが肌で感ずる。
列車は駅やら以外の処でも時々停車するが、勿論何分停車するのかさっぱり分からない。
排泄の小便の方は扉の取手に掴り立ったまま外へ放出するのだから、何とか用は足せる。
只進行中はしぶきが車中へ入ってくる。しかしお互い様でそんなことは言ってはいられない。
問題は大便の方だ。
これは停車してから下の線路脇へたれ流しである。困ったことに貨車の高さは胸のあたりまであるし、
何しろ停車時間が分からないから用便中に発車しても飛び乗れる様に貨車のどこかに掴ってするのである。
それでも弾がブンブンくる中でやることを思えば楽なものだと思う。

こんな車中生活がつづき、列車は徐州バンブーと平原を一路南下する。やがて南京の北岸の浦口につく。
揚子江は大きい。まるで海だ。
兵員の機材は対岸の南京に運ばなくてはならなかったが、
貨車から揚子江の北岸までと南京の南岸までの渡河方法等殆んど記憶が無い。
当夜は河岸の幕舎で野営した記憶がある。

部隊はどこへつくかわからないが船で遡上する。
馬鹿でかい揚子江であるが、場所によっては浅瀬があるらしく、
船員が船首で分銅をつけた細いロープを水中に投げ入れては水深を測り、操舵室に伝達している。
乗船日数はどれほどだったか覚えがないが、着いたところは漢口であった。ちょっとした港で、
陸の正面にレンガ造りの洋館があって、上部に円い時計がはめこんであったのが印象的であった。
附近は高い建物が並び、流石中支の大都会の感じを受ける。

上陸して部隊は飛行場まで直行する。部隊本部はここにおくらしい。
飛行場では敵地の爆撃行を敢行しているのであろう双発の軽爆撃機が盛んに離着陸を繰返している。
ここで何日留まっていたか覚えがないが、久しぶりに外出の許可があり、町へ出て慰安所で遊ぶ。

部隊はここで編成替えが行われ、俺は藤崎軍曹の分隊十六名で対岸の武昌に展開することになった。
前にも触れたように、分隊の通信機器が多いので移動が大変である。
しかも分隊長と暗号手の二名は除外されるので、十四名で行わねばならず、今様に言えば重労働である。
武昌では飛行場内の指令所近くの兵舎に起居し、隼三十三戦隊の作戦に協力していた。
ある日ここでB24四発爆撃機の空襲を受け、初めて爆撃の恐ろしさを体験した。
落下して爆発する音、ヒュルヒュルと空気を切り裂く爆弾の落下音を聞きながら
ただ土嚢の中の壕で縮こまっているだけで全く受身である。
幸い至近弾だけで終ったが、一発でも命中すれば一巻の終りである。
上空では友軍の戦闘機に銃撃され、炎上しながら落下していく敵機もあった。

在支米軍機との戦闘は続いたが友軍機の損害も大きくなり、
ついに戦隊長の少佐の空戦での戦死とともに機数も減る一方である。
空戦の戦士は明日の爆撃行の援護で、明日の敵機との空戦では我が身
ということが充分にあるにも拘わらず、作戦が終って未帰還機があると無事を祈りながら
暗くなるまで夕暮れの地平線を眺めている戦士の姿には胸がうたれる。
かの「同期の桜」の歌詞そのものである。


765: 名無しさん@おーぷん 2014/05/31(土)02:49:12 ID:641DF04nw
>>720
おじいさん金髪少女ガン見しすぎわろた 
検事って何かと思ったら「検事とその妹」っていう映画があるのね

755: 回想録 2014/05/31(土)02:42:24 ID:YrwL6aTvk
分隊は諜報電波の発信基地をさぐるため対岸の漢口へ移動し、探知作戦任務につく。
時恰も真夏でやけつくような暑さである。何とか任務を果し、武昌へ帰任する。
炊事に同年兵がいて、時々兵舎の隅で持ち出した航空糧食を肴に
町の邦人から仕入れた濁酒で車座になって小宴会の味が忘れられない。

夏も終りになり、敵の空襲の頻度が多くなったので危険を避けるため
分隊指令所は城内の町へ移動し、開設することになった。ここで漸く上等兵に進級する。
その頃軽爆の十六戦隊に協力していた。
ある日傍受信中に弱い電波でかすかに当所を呼出しているのをキャッチした。早速応答し、交信に成功した。
実はこの機は未帰還機となっていたが、この交信で友軍のいる信陽に不時着陸していることが判り、
このことが功績の対象となり上申することになった。

なんといっても楽しみは許可がでて外出するときで、そのときはまず軍人会館で一杯やり、
そして蛇山公園の慰安所へ繰込むことである。
道の両側に軒をつらねている屋号(屋台の誤字?)が今も記憶の中に鮮やかである。

またこんなハプニングもあった。
飛行場の方向探知所と指令所との連絡用電話に急にブーンという異常に高い雑音がでたので
電話線の点検に出たところ、離陸中の戦闘機の脚が高圧配電線を切断したため、
活線のまま地上に這い、その誘導音であることがわかった。
このままでは危険と思ったので附近にいた市民に筆談で電力会社へ状況の通報を依頼した。
そうこうしているうちに偶々そこへ大きな水牛が一頭、飼主に追われながら
切れた活線に触れたからたまらない。
忽ちもんどりうってその場にひっくり返って即死である。
よくしたもので飼主は包丁等ですぐ現場で処理してしまった。

(ちょっと面白いというか、現地人のたくましいエピソード)

763: 回想録 2014/05/31(土)02:48:32 ID:YrwL6aTvk
こんな頃になって、友軍の航空戦力が目立って衰えていくのがわかる。
十八年十一月になって分隊は南昌に転進することになり、機材を撤収して船で九江まで揚子江を下る。

九江に着岸し機材を船から鉄道貨車へ積替中、河岸でノースアメリカンB25の双発軽爆の襲撃に会い、
危く爆死するところであった。
この敵機は友軍の対空砲火で機体から黒煙を出しながら高度を下げていき視界から消えたが、
恐らく墜落したであろう。

南昌は中支の省都で、あちらこちらに戦跡を留める冷たい街並である。
機材を鉄道貨車からトラックに積替え郊外の飛行場まで直行したが、かなりの距離があったと思う。
兵舎に落ちつき軽爆戦隊に協力することになったが、南昌は桂林・遂川等、
在支米空軍基地の爆撃行の中継飛行場であって、常時友軍の協力体制にあった。
従って漢口の部隊本部とも連絡を保持していた。

分隊長のF軍曹の病状が悪化し、南京の陸軍病院へ入院することになったため、
漢口の部隊本部から替りにN軍曹が着任した。
歩兵出身の分隊長は戦場が厳しくなったので、指令所を壕に収めるため早速穴掘りにかかる。
材料は元海軍が管理していた古い兵舎をこわした木材で、残土は周囲に積上げ何んとか格好がつき、
勤務中はこの壕の中でキイを叩く。
兵隊は器用なもので、送信所は粘った土とジュラルミンの切れ端などを集めてストーブを造り、
暖房器に仕上げる。燃料は兵舎を剥がした板である。

今までは送信所が遠く離れていて勤務員と接する機会もなかったが、此処では比較的近くなったこともあり、
K一等兵(広島出身の妻帯者)とは特に親しく語る様になった。
後に彼は部隊本部へ転属してから衛陽作戦に従軍し、
敵襲を受け他の分隊員一命とともに戦死したことがわかった。
知ったのは後に南京に転進してからであるが、このことは心から残念に思った。
実はこれには因縁がある。当初俺が受信した電報には、本部に帰れ
と言われたのはH上等兵(自分)となっていた。
命令だからしようがないと思っていたら、程なくK一等兵に変更すると言ってきた。
これが運命の岐路となった思いがする。
結果論だからなんとも言えないが、これが作戦中の兵隊の命の重さと言うものだろう。

こんな頃、同じ兵舎にM部隊という歩兵が駐留していてしばらく一緒にいた。
この部隊にIという准尉さんがいて、夜、俺が指令所で勤務中時々遊びに来てちょっとも偉ぶることなく
友軍の歩兵の現状装置についてユーモラスに話してくれたものである。
しかし夜間は部下の軍曹を一名連れて、昼間は良民に化け夜はスパイとして暗躍する敵を探しながら、
毎夜パトロールに出かけるのだから大した度胸である。

772: 回想録 2014/05/31(土)02:56:54 ID:YrwL6aTvk
(艦これでもおなじみの電探という名前が登場)

友軍も漸く電探が装備されるようになり、これが南西部の山頂に設備され、
遂川桂林から我方に向かってくる敵機をいちはやくキャッチし、
我方の迎撃部隊に連絡することができる様になった。

あるとき敵の大編隊が桂林から出撃し、この飛行場を目標に刻々と迫ってくる情報がつぎつぎ入ってくる。
こうなったら覚悟しなければならない。ここには友軍機は一機もない。
迎え撃つのは俺達が持っている三八式歩兵銃と、分隊長が持っている戦利品のチェッコ機銃一丁のみで、
皆それぞれ分散して掩体壕の中で待機する。
やがて爆音とともに南の空から敵機の編隊が低空で機影を表す。
数えてみるとロキードP38とムスタングP51が二八である。
頭上までくると編隊を解いて縦一列になり目標に向って急降下爆撃に移る。
敵戦闘機は胴の下に一五〇kg爆弾を抱えていて、降下中に投下するのである。
爆弾の振動がズシンズシンと身体に伝わってくる。この間俺達は銃を撃ちまくったがさっぱり効果はない。
敵は知ってか知らずか、空の格納庫を狙ってきており、至近弾は五〇米位が一発あっただけで、
人員の損害は皆無であった。実際は短い時間であったが、とても長く感ぜられた。
一緒に應(応)戦していた歩兵さん達は前線で銃火に鍛えられていて、
すんでしまえば何があったんだと言うような顔をしていた。ケロッとしていたのは流石である。

またある時ピスト(飛行場指令所)から無線機の修理を頼まれ出向いて、
修理終って帰り際に敵機来襲の情報が入ったので敵に狙われやすいこんな処に長居は無用
と飛行場の縁を駆けていたところ、既に超低空で頭上に来襲した敵機の銃撃に遭い、
思わず水のない側溝にもんどりうって飛び込んだ。
一発でも当れば勿論お陀仏である。命拾いをした。
後で調べたら機関銃の「薬きょう」が付近に散らばっていた。

またこんなこともあった。
二〇〇V三相電源があるのに、送信機の電動発電機の電源として使えない
ということであったので早速調べてみたら、結線は正規のV結線であったが
一台の変圧器の極性が違っていることが判ったので二次側の結線を変更したら見事使える様になった。
今まで発動機を使っていたので楽になった。
こんな頃ハワイ出身の二世の軍属が配属された。指令所で米軍の交信無線の和訳がその任務であった。

楽しみな時々の外出では勿論軍属も一緒である。まず軍人会館で一杯やり、
内地から口こみで伝わってくる流行歌を口ずさむことである。
よく唄われたのは、思えば「湖畔の宿」であった。終ればおきまりの慰安所いきである。
在留邦人の家へ招かれてご馳走になったこともある。

夏になって付近の部隊のクリークや飛行場周辺の掩体壕構築のための用土掘削路の池へ出かけ、
魚釣りを楽しむ。魚類は主にフナやマス等である。
仕掛けは勿論手づくりで、まず竿は細い男竹、糸は補修用の手持ちのもの、
鉤は事務用の虫針を曲げてつくる。
浮は箸で、これに錘をつけてでき上り。これで十分戦果があった。餌のみみずはどこでもとれた。
丁度兵舎の横に枡形の池があって、ここでも初めのうちは面白い程よくつれたが、
だんだん釣れなくなって種切れになったかと、試しに押収手榴弾を水中にぶち込んだところ、
底の方でズシンと爆発音がして間もなく大小まぜて魚が水面真白になるくらい浮き上がったのにはびっくり。
中には大きな草魚も混ざっていた。バケツに一杯ぐらいの収穫だった。

時々方向探知所の夜間監視の順番が回ってくる。
探知所は歩兵の前哨線より先に設置してあるので油断はできない。
探知所の近くに掘ってある壕の中で仮眠するのだが、勿論銃には弾込めしてあり、手元に引寄せてある。
飼い馴らした犬を連行していて、壕の外に出してある。
犬が咆えたときは外へ出て銃の引金に手をかけ、暗をすかして見て異常がなければ
壕の中に戻って仮眠するのだが眠れたものではない。

(手榴弾で魚とりとか無茶するなあと)

794: 回想録 2014/05/31(土)03:08:57 ID:YrwL6aTvk
これを合わせてあと2回で終われそうです。半分弱と発言しましたが思ったより少なかったかも。
↓続き

秋になって漢口の部隊本部から南京への移動命令が下り、想い出多い南昌に別れを告げることになり、
お別れ外出でA子チャンと別れを惜しんでくる。
九江までの帰路はこの頃鉄道が撤去されていたので、?陽湖を船で渡らねばならない。
船が南昌の岸壁を離れるときは流石にセンチメンタルになった。
途中船は仮泊し、乗員は下船し野戦食をとることにする。そこはかつての激戦地の跡か付近は瓦礫の山で、
往時の戦が偲ばれる。

九江に着いてからは機材を揚子江の船に積み替え一路南京まで降る。
南京の岸壁で機材をトラックに積替え、城外の大校飛行場まで輸送し、兵舎に落つく。
十九年末になると、戦況も悪くなっていくのがよくわかる。ここで俺は兵長に進級する。
前述で離れた衛陽作戦に従軍したS分隊の中でK兵長とK上等兵が戦死したとき
同時にO上等兵も負傷し、南京の陸軍病院に入院していた。戦友として当然病院に見舞った。
後で姉の手紙で知ったことであるが、弟のSも作戦中に病が重くなり後送され、
この病院のどこかの病室で重症の身を横たえていたらしく、
このことがわかり見舞ってやればどれ程喜んだであろうと思うと残念でならない。
軍隊の作戦中の行動は秘密になっており、俺達下級のものにはわかるはずなく、情けない。

戦況は日増しに悪くなる。部隊本部は北支の方へ移動したため、
俺達は十三飛行師団の隷下に入りここに残ることになった。分隊長はK曹長に交代した。
この頃フィリピン作戦中のため、ここは内地との中継飛行場となり、多機種の飛行機の離着陸が盛んである。
俺達は九七重爆の六〇戦隊の夜間空爆の作戦に協力していた。
こんなとき俺は「手くずれ」を起していっとき全くキイが打てなくなってこれには参った。
かつて上級兵から必ず一回は経験すると言われていたが、これ程とは思わなかったし、脱出には苦労した。

或夜、戦隊は三機で空爆行に出発した。
しかし敵基地の上空についたものの悪天候のため引き返すことになった。
爆撃機は爆弾を装着したままの着陸は危険でできない。
従って地上からの指令により上海の海上まで行って投下することになって、二機は無事投下を果したが、
一機はコースを間違えたか山腹に衝突、大きな爆発音とともに炎上してしまった。
この頃敵機は近くまで飛来して窺っていたが、まさかと思ったのが油断であった。
十二月八日の大詔奉載日に突然敵機P51数機が超低空で来襲し、
フィリピンへ空輸中で燃料万タンで翼をを休めていた二十数機が銃撃を受け
――この間あっという間もない――真黒の煙とともに炎上してしまった。
こんなこともあって指令所はコンクリートで固めた防爆施設に入ることになった。

こんな頃になって若い特幹の兵長が十名余り配属になって来たが軍隊内務がなっていない。
思い余って整列させ、これが初めてで終りの鉄拳制裁を加える。
暫くは手首が痛かった。それでも効果てきめんでそれからはてきぱきと動くようになった。

夏になって戦況も益々悪くなり、広島が特殊爆弾で全滅したとの情報が入り、
指令所を場外に作ることになり、O上等兵と二人で毎日建設に出かける。
彼は木工に経験があるため、彼の指揮で手伝う。作業中出来かかった屋根を踏み外して下に落ち、
向う脛を打ち負傷する。これには参った。
海州の青木分隊の送信機をブレークイン装置に改良のため、秋山見習士官とともに
除州経由で湾岸の海州へ出張する。A軍曹と会うのもチチハル以来で懐かしかった。
予定通り送信機の一部改良も終り、二泊してから帰路につく。帰隊してから向う脛の傷が化膿しだした。
出張中クリークで泳いだとき菌がついたらしい。赤チンと軟こうだけで治すのだからなかなか治らなくて困った。

(最初の投稿で書いた戦病死した兄弟というのが今回に出てきたSさんで、
この後亡くなったとすると切ないすれ違いだったんだなと…)

800: 名無しさん@おーぷん 2014/05/31(土)03:10:29 ID:a5MPanUVB
>>794
今は深夜のテンションなので、
朝起きたらゆっくり読ませてもらうよ。
戦争経験者の手記なんて貴重だからな。

804: 回想録(ラスト) 2014/05/31(土)03:12:43 ID:YrwL6aTvk
ある日天皇陛下の重大放送があるということで、部員を集めて組み立てていた受信機で聞いたが
雑音がひどくて内容がよくわからない。
やがて日本は無条件降伏したことが伝わってきた。

さあ大変なことになった。俺達はどうなるだろう。
色々なデマが乱れとんだが、結局武装を解除され、捕虜として集中営に一括収容されることになった。
アンペラと毛布一枚だけの仮住居で、時々中国兵の監視つきで道路工事にかりだされる。
こんな生活が繰返され、年も越し、三月になって内地送還が決まり上海の王賓に移動することになり、
この集中営を引払い、列車で現地に向う。
無蓋貨車で荷物の上に乗っていたのだが、列車が途中停車中に原住民の略奪に会ったりしたが、
何とか無事に王賓に着く。
ここで乗船待ちをしたが思いがけなく内地に帰れることになり、望外の幸せであるが、思いは複雑である。
ここで何日待機していたか覚えはないが、復員手続きも完了。リバテイに乗船する。
心配していた途中の触雷もなく、三月二十一日に無事博多に着岸。
五年ぶりに内地に帰還したが、待合室に張ってある日本の主要都市の殆んどが戦災で全滅したこと
が赤い線のハッチングで表示してある。この中に故郷の○○も入っていた。
国破れて山河ありの言葉が実感として胸に迫る。果たして家族はどうなっているだろうか。
万感を胸に抱いた復員兵を満載した列車は只管北上する。


-以上で祖父の軍隊生活回想録の全文となります。
ここまでお付き合い抱いた方、ありがとうございました。長文連投失礼いたしました。

805: 名無しさん@おーぷん 2014/05/31(土)03:13:21 ID:d8XYKa5UZ
>>804
お疲れ様です

806: 名無しさん@おーぷん 2014/05/31(土)03:14:15 ID:a5MPanUVB
>>804
お疲れ。終戦の時のことも記されてるのか
あとでじっくり読ませてもらいます

807: 名無しさん@おーぷん 2014/05/31(土)03:14:36 ID:9BOOh19Is
>>804
お疲れ様です、貴重な話をありがとう

813: 名無しさん@おーぷん 2014/05/31(土)03:17:36 ID:641DF04nw
>>804
拝読しました。おつかれです

816: 名無しさん@おーぷん 2014/05/31(土)03:18:35 ID:R0Y97jqOh
>>804
貴重な話をせんくす
故郷帰還後の話も聞きたいな

815: 名無しさん@おーぷん 2014/05/31(土)03:18:11 ID:mRxnGWjl3
おつでしたー。
戦後はどうなっちゃったんだろう

840: 回想録 2014/05/31(土)03:37:17 ID:YrwL6aTvk
>>815 >>816
詳しくは聞いてないけど、町は空襲で焼けたものの
日本にいた祖父の家族は(戦時中にやはり結核で亡くなった妹1人を除き)皆無事だったみたいで、
仕事も出征前にしていた場所に戻れた…んだと思う。電力会社勤めだったと聞いてたし。
祖母とはお見合い結婚をして(決断の決め手になったのは顔がよかったかららしいw)
まあそれからは特筆すべきことも無かったんじゃないかと。

祖父が亡くなったのは自分が十歳の頃で、思い出せることも多くないんですが、
手作りのおもちゃを作ってくれたり、技術を生かしてミニ四駆の修理とかしてくれたり、
やさしくて頼もしいおじいちゃんでした。

864: 名無しさん@おーぷん 2014/05/31(土)03:56:39 ID:bn4wOs7co
>>840
いいおじいさんでいいですな
戦争関連でもうちは父形の方のじいちゃんは産まれる前から居ないし、
ばあちゃんは疎開で食べ物もあったし言うことないって感じだったわ。
母形のじいさんが天皇からの感謝状かなんか持ってたから、何かあったかもしれんが話聞いたことない…


こういう回顧録は非常に興味深いですね


引用元:http://uni.open2ch.net/test/read.cgi/gameswf/1401460111/